江戸唯一の公認遊廓

最初の吉原は、日本橋のはずれの湿地帯を埋め立ててつくられました。1618年に営業開始し、当初は、置屋が17軒、揚屋が24軒のスタートです。置屋とは遊女や芸者の派遣会社で、揚げ屋は遊女や芸者を呼んで遊ぶ家です。人材を確保する業者と、遊ぶ場所とが別々に営業していたわけです。吉原は人口増のおかげで大繁盛します。

【遊女街が堀で囲まれていたため、「遊廓」と呼ばれるようになりました】

当初は「遊廓」(ゆうかく)という呼び方はなく、「遊女屋」「傾城屋」(けいせいや)と呼ばれていました。「傾城」とは中国の歴史書に「君主が女遊びに狂って城が傾いた」という話があることから、遊女を指すようになった言いまわしです。吉原は独立した街としてつくられたため、周囲を堀で囲まれていました。数メートルの幅のある堀には、遊女や客の逃亡防止の役目もありました。

堀は泥が溜まって黒かったため、後に「おはぐろどぶ」と呼ばれるようになります。こうした堀で囲まれたり、塀などで囲まれた一画を「廓」(くるわ)と言うので、「遊女のいる廓」という意味で、「遊廓」と呼ばれるようになったと言われます。

【人口集中のおかげで大繁盛した吉原】

吉原は遊女屋が集まったセックス専門の場所で、堀で囲まれていたため独立した街となります。遊女の数はおよそ1000人いたそうです。吉原の入口には大門があり、出入りできるのは1箇所のみです。あらゆる人が大門から出入りしますが、遊女は一度入れば、奉公が済むまでは一歩も外へは出られません。この幕府公認の遊郭は、1618年にスタートして以来、昭和33年(1958年)に売春禁止法が施行されるまで、340年間続きます。

吉原がスタートしたのは豊臣氏滅亡の4年後で、江戸にはますます人口が流入しました。加えて「武家諸法度」の発令により参勤交代が始まり、全国の武士たちが江戸に集まります。そのため江戸の人口爆発は加速し、しかも大半が男性であったことから、必然的に吉原は繁盛しました。

一方で問題も起こります。もともとは江戸のはずれのへんぴな場所につくられたはずの吉原が、江戸の町の発展に伴い街が広がって、吉原の近辺にも人が住むようになりました。いつの間にか、街の中心部に遊廓があることになってしまい、これを快く思わなかった幕府は吉原の移転を決定します。こうして1656年に強制移転が決まり、現在の地に新たな吉原が誕生しました。

吉原は、豊臣氏の滅亡、参勤交代制度の開始によって、江戸の男性人口が急増したおかげで大繁盛しました。しかし、江戸の町全体の人口増加のおかげで、街の中心になってしまったため移転が決まりました。