高級遊女たちは書や和歌までたしなんだ!?

江戸の遊女たちにとっては、手紙は重要なマーケティングツール。馴染みの客との手紙のやり取りは、上客を逃さないために必須でしたし、さらに上級の顧客のお相手をするためには、和歌や書などにも長けている必要もありました。そのため、禿(かむろ)のころから徹底的に教育され、一般の女性に比べてもはるかに知識レベルは高かったのです。

【吉原の識字率は、極めて高かった!?】

わが国の教育レベルは、既に江戸時代において世界最高水準だったと言われています。明治維新以降、欧米の技術をあっという間に吸収できたのも、寺子屋など江戸時代の教育体制がしっかりしていたためです。江戸時代には「読み書きそろばん」が重視され、18世紀の終わりころからは寺子屋が急増して、町人の子も一定レベルの知識を持つようになりますが、吉原遊郭では、それ以前から禿(かむろ)に対して、文字と数学を教えていました。遊女の識字率は町人の水準をはるかに上回っていたのです。

それは、遊女たちにとって手紙が重要な営業ツールだったからにほかなりません。遊女の書いた川柳に、「目が冷めて見ればまだ書く長い文」というものがありますが、寝ても覚めても手紙を書いた遊女もいたのです。

【読み書きそろばんを超えた教育も受けていた!?】

遊女が稽古したのは、文章を書いたり、計算をしたりと言うことだけではありません。きれいな文字を書くための書道、生け花、茶道、和歌や俳句、川柳、琴や三味線などの音楽、囲碁や将棋など幅広く「趣味」を広げていきます。彼女たちは大門の外に出ることはできませんので、それぞれの師匠が廓に出張稽古にきて教えていました。

書家としても有名だった儒学者の澤田東江(さわだとうこう)は、吉原の扇屋という女郎に書を教えていました。扇屋の書いた書は、向島の神社に奉納されたほどであったと言われています。江戸時代の「春告鳥」(はるつげどり)という本には、花魁が遠州流華道の祖である貞松斎一馬(ていしょうさいいちば)に活け花を習い、歌学の権威である井上文雄に和歌を習っていることが記載されています。後世に名を残した一流の人々の指導を受けていたのです。

【とてつもない才能を持っていた高級遊女たち】

吉原の遊女たちは高い教養を身につけ、一般のレベルをはるかに上回る知識人であり趣味人でもありました。才能のあるものは芸に長け知的レベルも高かったために、身分の高い武士たちやビジネスで成功した大商人たちと対等に会話をしたり、目の肥えた人たちをも驚かせられるほどの芸を披露したりすることができました。また、ひまつぶしの、囲碁や将棋などにおいてもそうとうな腕前の者もいたようです。それゆえ、位の高い金持ち層たちにかわいがられ、彼らをとりこにすることができたのです。

吉原を支えた遊女たちは、レベルの高い教育を受け、素晴らしい素養を身につけていました。それがゆえに、ただのセックス天国に終わらなかったのでしょう。訪れる者たちも、単に性欲の発散ではなく、楽しむために足繁く通いました。遊郭の繁栄の陰には、楼主たちの教育投資と女性たちの努力がありました。吉原の遊女たちは世界に類を見ないほどの高学歴エリートだったのです。