遊女のお姫様「太夫」の意気張り

大夫というポジションは、誰でもなれるものではありません。器量が良くて頭がよいだけでも足りません。セックス技法にたけていても、まだ不足です。もともと「大夫」という言葉は、京で歌謡に優れた人に対してつける敬称です。現代語で言えば「先生」のようなもの。皆から尊敬されるからこそ「大夫」です。

歌謡はもとより、舞踏、和歌朗詠、囲碁、茶道、華道、茶道にも通じたマルチプレーヤーです。どんなに身分の高い人の側においても恥ずかしくない素養・教養をもち、品性や才知の面でも優れた人です。だからこそ、しばしば大名や大金持ちに見初められ、身請けされて妻や側室として迎えられたわけです。平安貴族と対等に相手ができるだけの素養を持っていました。それだけに、プライドも高く、それが吉原の魅力とも言われました。

【「意気張り」は吉原遊女の特長】

吉原のトップスター「大夫」が、遊女ながらもとても高い地位にいたため、遊女たちはそれにならって気位が高くなります。こうした吉原遊女のプライドのことを「意気張り」(いきばり)と呼びました。金銭になびかず、イヤな客にはイヤと拒否し、床をともにしません。気に入らない客やキザな客などに対しては応対を断ったり、たとえ床をともにしても、体調が悪いからとセックスしませんでした。

独眼竜正宗の孫で仙台藩主だった伊達綱宗は、吉原の三浦屋にいた「高尾大夫」という遊女にいれあげました。熱心に通い続けても、高尾大夫は綱宗の言うことを聞かず袖にしてしまいました。

史実かどうかは諸説ありますが、その後、綱宗は高尾大夫の体重と同じだけの金を積み、大夫を身請けしました。しかし、それでも高尾大夫は綱宗に抱かれることを拒否し続けたため、怒った綱宗は船の上で大夫を逆さづりにして、殺したと言われています。しかし綱宗の吉原での放蕩が幕府の逆鱗に触れ、幕府は21才の綱宗を大名からおろし隠居させ、さらに謹慎処分にしました。

【次第に薄れた意気張り】

意気張りという気質は吉原独特のもので、京や大阪の遊女にはないものです。どうして吉原の遊女たちには「意気張り」気質が根付いたのかは定かではありません。男性が大量に流入した江戸の社会の、「男の気風」が影響をあたえたのかもしれませんし、需要と供給のバランスがくずれ、遊女に有利だったからかも知れません。

遊女たちは、自分たちはただセックスをするだけの女ではない、というプライドをもち、さまざまな芸を見せることが自分のウリだと考えていました。しかし、1700年代の半ばに吉原から大夫が消滅すると、芸者が出現しました。意気張りを看板にしていた遊女たちから、プライドは次第に薄れていたと言われています。

吉原の遊女たちの「意気張り」は、人間としての誇りから生まれたものでしょう。いくら金をつまれても寝ない遊女の存在は、吉原の価値をさらに高めてもいたことでしょう。