四宿と飯盛り女

日本橋から始まる五つの街道のうち、江戸を出発して最初の宿場町は、東海道は品川宿、甲州街道は内藤新宿(新宿)、中山道は板橋宿、日光街道・奥州街道は千住宿でした。これらはまとめて「四宿」と呼ばれ、四宿には旅人相手の宿場女郎がいました。

吉原の遊女は「花魁」(おいらん)と呼ばれましたが、これに対し、四宿や風呂屋にいる遊女は「女郎」と呼ばれ区別されました。幕府の政策は、吉原以外の遊女屋は認めないというものでしたが、それをすり抜けるため、四宿では女郎を「飯盛女」と呼び、あくまでも、給仕係であるという体裁をとりました。

【飯の世話からセックスの世話までする飯盛女】

もともと「飯盛女」は宿の雑務を担う使用人で、どこの宿場街にもいました。最初は給仕が専門だった女たちが、次第に酒席にはべるようになり、そのうちに、旅人たちの性欲処理も行うようになりました。こうして、「飯盛女」は宿場女郎を意味するようになります。

幕府は、1659年に東海道の宿場町での遊女禁止令を出しますが、宿1軒につき2人までは女郎を認めました。これにより、飯盛女は公認されます。参勤交代制度のおかげで、1年おきに全国から武家が江戸に集まります。東海道は1年に146の武家が通りますので、毎週のようにどこかの大名一行が宿泊することになりました。おかげで、宿場町は大繁盛しました。飯盛女には吉原のような決まりごとはないため、情緒がない代わりにすぐにセックスできました。とても手軽な性風俗で、かつ料金も格安だったため、大繁盛します。

【1位は品川、2位新宿】

四宿の飯盛女にはランキングがあり、1位が品川宿、2位が内藤新宿、3位が千住宿、4位が板橋宿でした。品川は交通量が圧倒的に多く、そのぶん需要が多いため競争も激しく、美人の女郎があつまりサービスも向上します。幕府はたびたび品川宿の取締りをして飯盛女を規制しますが、飯盛女がいなくなると旅人は品川宿を素通りしてしまいかねない状況となります。そこで、1764年には500人までを限度に認めることとしました。こうして、品川は吉原に次ぐ、第二の遊女街となりました。

現在の新宿御苑のあたりには信州の城主内藤家の屋敷があり、この一部をもらって作られたのが内藤新宿。交通の要所として飯盛女も繁盛し、昭和の半ばまで、「赤線」(公認遊女町)、青線(未公認遊女町)として栄えました。

五街道の整備とともに江戸に最も近い宿場町「四宿」が栄え、そこには「飯盛女」と呼ばれる女郎が繁盛しました。中でも品川は最大の宿場町として、吉原に次ぐ遊女街となりました。