吉原と双璧をなす遊女街・「島原」とは?

江戸時代、公許の遊郭は吉原だけではありませんでした。江戸の吉原に対し、京都で唯一の幕府公認の遊郭として存在したのが、島原です。京都の百姓や町人、浪人や旗本まで、多くの男性を魅了し、吉原に負けないくらいの活況を呈しました。現在は観光地としてその趣を残す島原の魅力について迫ってみましょう。

【島原とは?】

江戸時代の京都の歴史を華やかに彩った島原。日本初の幕府公認の遊郭ともいわれ、その歴史は吉原よりも古いということになります。郭の作りが島原の乱の舞台となった城下に似ていることから、その名前が付いたといわれます。

吉原と同じ遊女街ですから、「豪華絢爛で、たくましい女性たちの壮絶な生き場所」というイメージをもたれがちです。しかし、実際には若い男性以外にも女性や子ども、老人も楽しめる一種の歓楽街だったそうで、閉鎖的な吉原とは一線を画します。

島原といえば、遊里の入り口にある思案橋が有名でした。入り口にさしかかり、遊女と遊ぶか、引き返すか、多くの客がそこで立ち止まって逡巡したことから、思案橋とよばれるようになりました。もともとの由来は、橋を行き来する人々の言葉を聞き、吉凶を判断する橋占いから来た言葉ですが、いつの間にかそれが遊郭との境界にも使われるようになったのです。

【有名な角屋】

吉原や島原などの遊郭には、遊女が芸を披露するなどしてお客をもてなす揚屋という料亭がありました。その揚屋が現存のまま唯一残る建物として有名なのが、島原にある角屋です。

置屋から派遣された芸妓や太夫が、角屋で町人や武士、または旗本大名といった有力者を相手に、芸事などを披露して楽しませました。普通の料亭のような感覚で楽しむ庶民も多かったといわれます。

その角屋は昭和60年まで営業を続け、激動の時代をくぐり抜けてきたことから、京都の花街文化の象徴的存在ともいえます。現在は、「角屋もてなしの文化美術館」として往事をしのばせる遺構を今に伝えています。

【あの新撰組を虜に】

京都の島原は、歴史上の一大事件の舞台にもなりました。とくに、幕末に活躍した新撰組にまつわるエピソードを数多く残しています。

文久3年に起きた最初の新撰組局長・芹沢鴨一派粛正事件。当時芹沢の乱暴狼藉に業を煮やした近藤らが、壬生の八木邸で愛人と寝ていた芹沢を急襲し、首を討ち取りました。その直前まで芹沢は郎党を連れて島原角屋の松の間で派手な宴会を催したといわれます。

また、新撰組メンバーは島原の御用達であったらしく、多くの剣士たちが島原の遊女と浮き名を流しました。局長の近藤勇は金太夫を気に入り、副長の土方歳三は花君太夫に熱を上げ、新撰組でも一、二を争う剣の使い手だった永倉新八は亀屋の芸妓・小常との間に娘までもうけます。

小常は産後体調を崩して死んでしまいますが、娘の磯は永倉と離れた後もすくすくと育ち、明治24年に父親と再会を果たします。磯は「尾上小亀」という名で女優として活躍したそうです。

幕末、政局の中心が江戸から京都に移ったことから、歴史上の偉人達の足跡をたくさん残すことになった遊里・島原。当時の遺構をとどめた建物もあり、魅力的な観光名所です。京都へ行く機会があれば、当地を訪れ、日本一古い遊楽街の雰囲気を味わってみるのもいでしょう。