「おやじ」と呼ばれた立役者

成功したものには必ず「立役者」がいるものです。吉原にとっては、庄司甚右衛門がその人です。ただし、当時は「庄司」と名乗ってはいませんでした。もともと、甚右衛門の家は小田原の北条家の家臣。そんな家柄のものが女郎屋の経営者になり下がったことを恥じ、本名を明かしていなかったのです。甚右衛門亡き後に、素性を知るものが「庄司」であったことを明らかにし、子孫たちは庄司を名乗って後をついでいきました。苗字のない甚右衛門の通称は「おやじ」。卓越した交渉力と行動力、リーダーシップをもった偉人で、幕府と交渉して吉原建設の許可を得たり、組織内の規律を維持したりすることに邁進しました。

【ばらばらにあった女郎屋をまとめたのは、交渉力だった!?】

江戸幕府が開かれ、江戸の街に男たちが一気に流入するとともに、女郎屋街もあちらこちらに林立しました。幕府は、女郎屋ができること自体を良しとは考えていませんでしたが、労働者の性的欲求を満たさなければならないという考えもありました。女郎屋があることで風紀が乱れたり、犯罪の温床にもなります。一方で、性的不満をかかえた若者たちは時として犯罪に走る傾向にもあります。そんな幕府の悩みに対して、的確な答えを出したのが庄内甚右衛門でした。

幕府としては「売春宿」を公認したくありません。何とかつぶしたいと思っています。しかし、いくら取り締まってもしきれない状況にもありました。そこで、甚右衛門は、3つの理由をあげて、遊郭建設を提案したのです。

【甚右衛門の3つの理由】

ひとつは、娼館を一か所に集めればコントロールがしやすいということ。遊女を買う客の中には夢中になって入り浸ってしまう者もいました。依存症になって仕事も忘れるものもいるため、遊郭サイドでその監視を行なえば、破滅するものを救うことができる、と主張しました。

ふたつめは、人身売買を防止すること。当時の江戸では、困窮した家の娘を養女にもらい、その娘を遊郭に売ってもうけているものがいましたが、「かどわかし」の重罪。もし、遊郭ができれば、そうした行為を防いだり、幕府に報告したりすることができると主ったえました。

3つ目は、犯罪者をかくまう温床となる女郎屋を排除して、健全な街づくりができるということ。女郎屋がばらばらにあると、悪人たちの隠れ家になりがちですが、一か所に集めて管理をすれば、犯罪者の排除や発見がしやすいと主張したのです。これらの主張は、結果として幕府の心を動かし、日本橋のはずれに、新たに遊郭の街を建設することが許可されました。

【街の女郎屋を排除して、吉原に集中させた】

江戸時代の始めには、風呂屋で売春が行なわれていました。吉原が唯一公認の遊郭となった後も、銭湯がいわば「もぐり」の女郎屋を営業していたのです。甚右衛門は、こうした不法な売春宿を排除するため幕府に働きかけ、17世紀の半ばには、ほぼすべての遊女を吉原内に囲い込むことに成功したのです。

吉原の成功は、甚右衛門なしではあり得なかったでしょう。遊郭の建設から、一般の女郎屋の廃止にいたるまで、高い交渉力で幕府を動かし実行しました。甚右衛門は吉原の代表となり、その後代々、子孫が継承していきました。