移転で活気づいた「新吉原」

新吉原

最初に日本橋のはずれにできた吉原は「元吉原」と呼ばれ、新たにできた吉原は「新吉原」と呼ばれましたが、次第に「吉原」といえば「新吉原」を指すようになります。元吉原は40年続いただけですが、新吉原はその後、昭和の中頃まで300年続きました。

移転については、遊女たちは当然反対しました。人口の集中するエリアから郊外の田舎町へ移れば、客足が減るのは目に見えています。しかし、幕府の出した移転条件が破格のものだったため、移転に合意します。新たな営業条件のもと、客層も広がり吉原はさらに繁盛しました。元吉原から新吉原に移転して遊女数は倍になり、さらにどんどん大きくなります。

【幕府の出した好条件】

もともと吉原が作られた時の許可内容は、「日中のみの営業」という条件で、「元吉原」は昼間だけの遊廓でした。移転に際し幕府が出した条件には、「夜の営業も認める」という条項がありました。ほかに、土地はそれまでの1.5倍の広さ「2万坪」を与える、移転料を支給する、ほかの地区で営業している遊女を一切禁止する、などがあり、破格の好条件です。さっそく移転作業が開始されました。

それまでは、風呂屋に「湯女」という女性がいて、銭湯にきた客を相手に遊女業を営んでいました。つまり、銭湯でセックスできたわけです。新吉原が完成すると、幕府は江戸中の風呂屋に通達を出し一切の湯女を禁止します。そのため、江戸に600人いた湯女全員が吉原送りとなりました。吉原が独占的な遊女営業を開始します。

【新吉原の開業と発展】

湯女600人が一度に新吉原に流入してきましたが、面積が1.5倍になったため受け入れ態勢は十分で、新たな吉原は、元吉原に比べてとても大きな遊郭となります。開業当初1000人規模だった遊郭は、2000人規模に倍増しました。

吉原の案内書「吉原細見」によれば、新吉原ができて60年後の1728年には、遊女は2552人いたとされています。さらに、江戸末期の1846年には7197人となっており、120年ほどで3倍に膨らんだことになります。江戸幕府の発展とともに、吉原がどんどん大きくなっていったことがわかります。

移転とともに客層も変化しました。それまでは昼間だけの営業許可だったために、日中仕事のある町人は遊びづらく、客層は暇な武士が中心でした。夜間営業のスタートとともに、町人たちが吉原に足を運ぶようになります。様々な階級の男たちがつぎつぎと押し寄せるようになり、吉原はますます発展します。

新吉原への移転に際し夜間の営業も認められ、客層も武士から町人へと広がります。そのため、吉原は急激に発展しました。