「紅葉狩り」は吉原行の言い訳だった!?

交通網の発達した現代においては、東京23区内に辺鄙(へんぴ)な場所はありませんが、江戸時代には浅草寺に近い吉原辺りはまだまだ田舎町。「ちょっと出かけてくるよ」といって散歩に行くような場所ではありません。よほどの理由がなければ、誰も行かないところです。そこで、吉原遊びをしたい人たちは、いろんな「言い訳」を考え付きました。その一つは、「紅葉狩り」です。吉原の近くの紅葉の名所を訪ね、「ついでに」遊郭にも立ち寄る。そんな日帰り旅行を楽しんだのです。

【お寺や神社は、かっこうの「言い訳」だった!?】

江戸時代には、神社やお寺がしばしば言い訳に使われました。「お伊勢参り」が爆発的に人気になったのも、仕事を休んで遊びに行くのに、信心深さを理由にすれば疑われなかったからです。もちろん、お伊勢参りもするのですが、道中では観光をしたり女郎屋で遊んだりもして楽しみました。現代人と同様に、江戸の人々も「言い訳上手」だったのでしょう。

吉原の西には正燈寺というお寺があり、秋になると紅葉が有名で「もみじ寺」と呼ばれたりもしています。境内のもみじが素晴らしかったのです。江戸市中にその名が知られていましたので、しばしば吉原に行くための言い訳に使われました。ただ、お寺一つだけでは若干不足です。そこで、合わせ技として、吉原の裏手にある鷲(おおとり)神社や浅草寺なども使われました。11月には鷲(おおとり)神社の酉の市があり、12月には浅草寺の年の市があります。また、向島の桜なども「かこつけ場所」としては便利です。近隣のさまざまな場所が使われ、次第に人が集まるようになっていきます。江戸時代の初めには田んぼばかりの田舎町だった浅草近辺が、次第に発展していったのは、吉原の隆盛のおかげでしょう。

【お大尽と言えば、紀文!?】

家族に内緒で吉原通いをした人たちの記録はほとんど残っていませんが、大金を使った人たちのことは歴史にも残っています。その中でも一番目立ち、後世に語り継がれたのは、紀伊國屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)、略して「紀文」(きぶん)です。遊里で豪遊する人を「大尽(だいじん)」と言いますが、文左衛門は「紀文大尽」(きぶんだいじん)と呼ばれていました。幕府お抱えの材木御用達として巨万の富を築いた人で、接待のために武士(役人)たちを連れて通い詰め、大判振る舞いをしたのです。初期の吉原の客層は武士中心でしたが、後には商人が中心となり、武士たちはその「接待」の相手として訪れるようになりました。紀文に次ぐ大尽としては、やはり材木問屋だった奈良島茂左右衛門(ならしましげざえもん)、略して奈良茂(ならしげ)がいます。

江戸時代の家屋は木造で、しばしば大火で焼けました。そのため、材木の需要は高く、しかも幕府御用達となればそうとうな商売ができました。紀文は一代で大金持ちになりましたが、一方で「火事頼み」のビジネスは不安定です。バブルが始めるとともに財産を失い没落してしまいまったそうです。

江戸時代の男たちも、女遊びにいくには「言い訳」が必要でした。男尊女卑の封建社会であっても、やはり女房は怖かったのでしょう。それぞれが工夫して、何とか説明のつく「かこつけ場所」を考えていたようです。