吉原では「型」が重んじられていた!?

吉原はしきたりの多いところでした。その背景には、江戸時代の半ばころの元禄時代までは、客層が武士階級だったことと関係しています。きちんとした身なりの武士たちは、幼いころから礼儀作法についても厳しくしつけられています。そのような人たちを相手にするためには、遊女も一定の礼儀をわきまえなければなりません。

また、「色欲」だけの世界であっては、武士にとっては都合が悪いという側面もあったでしょう。「性欲に負けて、色町に通い詰める」のはカッコが悪い。遊郭にはセックス以外の目的や品格もなければならなかったのです。それゆえ、一回目のときには何もすることができませんでした。お金を払って帰るだけ。それも吉原の「型」だったのです。

【元禄を境に武士から町人へと客層が変わった!?】

初期の吉原の客層は上級武士や旗本などが中心で、いわば、上流支配階級のお遊びの場でした。江戸時代の半ば、好景気にわいた元禄時代ころから町人たちの中にも富裕層が生まれ、逆に武士たちの経済状況は悪化していきます。実は、江戸時代の武士たちの給与制度には「インフレ」という考え方がなく、「100石」と決められた家の者は、先祖代々「100石」。江戸時代の始めの先祖から何代か後になっても、給料は変わりません。したがって、経済が発展してインフレが起こると、武士たちの収入は相対的に低下してしまったのです。

逆に町人たちの収入はどんどん増えていきます。かつては上流武士にしかできなかった豪華な遊びに、町人たちも参入するようになっていきました。遊郭にも、一般町人を相手にする少し格下の遊女も生まれました。散茶、梅茶とよばれる下級遊女は、主に町人たちが客層です。そうして、吉原ならではの「型」は町人たちにも受け継がれていくことになりました。

【多額のお金を払いながら、「ちょっと寄っただけ」】

江戸の街で一番の美女は、遊郭の大見世にいる上級遊女。いわゆる「花魁」(おいらん)です。単に美しいだけではなく、お茶やお花、踊りや文学などの素養ももち、セックステクニックにも長けているスーパーレディ。誰もが憧れる最高の女性ですが、いくらお金を積んでもすぐにお相手をしてもらえるわけではありません。花魁(おいらん)との初回では、ベッドをともにするどころか口をきいてももらえません。それが吉原のしきたりです。酒席をともにしますが、遊女の方は横を向いて座っているだけ。酒にも料理にも一切手をつけません。

客の方はそれをながめながら、酒を飲むふりをして早々に引き揚げる。こうした「型」を守らなければ最高の美女と肌を合わせることはできませんでした。大金を払って酒席をともにしながら、「ちょっと近くに寄っただけだから」と言って帰る男こそ、「粋な旦那」であったわけです。こうしたカッコよさを遊女に認められないと、本懐をとげることはできません。遊女たちには「意気地張り」の権利がありましたので、気に入らない相手とは寝ないのです。

吉原は単なる肉欲のまちではありませんでした。「型」と「しきたり」を守る、独特の世界。それによって、品格も保たれ続けましたし、しだいに、武士階級から町人層へとそうした文化が受け継がれていくことになりました。江戸の文化の発展の一端を担っていたとも言えるでしょう。