吉原と歌舞伎の意外な関係

江戸時代の歌舞伎は現在のような上品なものではありませんでした。「歌舞伎」の語源は「傾く」(かぶく)で、風変わりな衣装を着たり、常軌を逸した行動を指した言葉です。「歌舞伎」のもとは「お国」(出雲の阿国)で、遊女屋で取り入れられて全国に広まりました。「お国」はエロティックな芝居であり、歌舞伎は後に幕府によって「風紀を乱す」との理由で禁止されたりします。

「二大悪所」と呼ばれた歌舞伎と吉原は、ともに江戸文化の中枢となり大流行します。吉原と歌舞伎は互いに影響しあい、吉原を舞台にした歌舞伎が演じられ、歌舞伎役者を吉原の経営者が後援したりするなど、両者は密接に関係するようになります。流行も吉原と歌舞伎から発信されるようになりました。

【歌舞伎と吉原は二大ファッションスポット】

江戸時代には「美人画」と呼ばれる絵が流行しました。現代で言えばアイドルの写真のようなものです。この美人画に吉原のトップスター「花魁」(おいらん)が描かれるようになり、大人気となりました。江戸中から、「花魁」を一目みようと吉原に人が集まり、花魁が通りを歩くと、祭りのような騒ぎが起こったと言われています。

遊女たちの髪型も町の女性たちの人気となります。吉原の花魁「勝山」がゆった髪型は、「勝山髷」(まつやままげ)と呼ばれ、江戸中に広まって、ごく一般的な髪型として定着しました。浴衣の柄も、「吉原つなぎ」という粋なデザインが街に広まり、てぬぐいや扇子に至るまで、あらゆる小物に使われるようになります。

参勤交代できた武士たちは、帰郷すると吉原の体験談を土産話に持ち帰り、地方でも「吉原」の名前やファッションが浸透しました。江戸における吉原の地位は確固たるものとなり、町人たちのあいだでは、「男は吉原、女は歌舞伎」と言われるようになります。

次第に「通」(つう)が生まれ、粋な客が増えて、吉原はますます洗練されていきます。

【吉原で起きた事件は歌舞伎の題材になりました】

吉原ではさまざまな事件も起こります。客と遊女が本気になって心中を図ったり、遊女に本気になって、「遊ばれた」と怒って刃物を振り回す男も現れます。現代のストーカー事件に似た問題が起こっていたわけです。こうした事件は、歌舞伎の題材になり上演され、歌舞伎と吉原はますます関係が深くなりました。

エロティックな芝居もしていた歌舞伎と吉原は、互いに関係し影響しあって、洗練されていきます。江戸文化の中心となり、ファッションの発信地にもなっていきました。