吉原を創業した庄司甚内とは?

徳川家康が江戸に幕府をおいて十数年後、日本橋の葦屋(あしや)町というところに吉原遊郭がオープンしました。この伝説の遊女街の生みの親が、庄司甚内という男です。彼はどんな人物で、どういった経緯で吉原を江戸に開いたのか?ここでは、謎に包まれる吉原の創業者・庄司甚内について迫ります。

【庄司甚内という男】

庄司甚内という男、吉原を生み出したほどの人物ですから、その出自は裏業界の実力者の家系かと思いきや、実は武家の名門の生まれ。庄司甚内は1575年(天正3)小田原城主の家臣・庄司又左衛門の息子として小田原に生を受けます。小田原城主は、関東に覇を築いた大大名・北条氏康。この旗本の家に生まれたわけですから、立派な武士の血筋を持っているといえるでしょう。

1590年(天正18)、庄司甚内は江戸へ旅立ちます。江戸の街並みを見て、「活気はそこそこあるが欲望を満たす遊楽街がない。庶民が羽目を外して遊興に耽る場所があれば、人も集まり賑わうだろう」そう思い立って武士の身分を捨て、遊女施設の開設を思い立ちます。このとき庄司はまだ15歳。空恐ろしい少年というべきでしょう。ちなみに、同じ時期に徳川家康が江戸城入府を果たしています。

【家康との出会い】

家康の江戸城入府以来、江戸の街は急ピッチで整備が進みます。三河の武士団を住まわせる屋敷をたくさん必要としたので、建築に従事する職人や下働きの人足らがぞくぞく江戸の街に集まりました。それに伴い、銭湯や遊女屋も生まれ、江戸城周辺は活況を呈します。15歳で江戸に出向いて、「遊女の街を作って荒稼ぎしよう」と野望を抱いた庄司も、この時期はさぞ活躍したことでしょう。

1600年(慶長5)、天下分け目の関ヶ原決戦が行われた年に、庄司は家康と運命の出会いを果たしています。家康が関ヶ原へ向け出陣しようとした折り、庄司がオープンさせた鈴ヶ森の茶屋に、家康一行が立ち寄ったときのことです。庄司は家康の出陣を聞いて好機到来とばかりに張り切り、江戸各地の遊女屋からとびっきりの芸妓を8人選んで家康家臣団のもてなしに奔走しました。

要所要所で勘を働かせる庄司を籠の中から拝見していた家康は、家来に「あの男は何者か?」と尋ねます。家来が近寄って素性を問うと、庄司はこう答えました。

「私は、遊女屋をつかさどる庄司甚内と申す者です。この度お殿様が天下泰平と万民の安息のため、御出陣すると聞き及び、お殿様と家臣のみなさまのご武運を祝おうと、僭越ながらお茶の接待を差し上げている次第でございます」

これを聞いた家康は、庄司を「なかなか奇特な者」と深く感じ入ったといいます。関ヶ原で西軍との戦いを制し、意気揚々と凱旋した折りも、庄司たちの厚い接待を受けたので、家康は喜び、格別の褒美を賜ったといいます。

【幕府から、庄司の遊郭に許可状】

日本橋の葦屋町にオープンした吉原は、もともとは家康の隠居地・駿府城城下にあった公娼がそのまま移転したものといわれます。駿府には、広大な敷地面積を誇る遊女街があったといいますから、家康は遊郭の設置に深い理解があったことが想像できます。

家康亡き後、駿府の遊郭は日本橋に移転し、吉原とよばれる日本最大の遊女街の誕生となります。遊女屋経営にお墨付きをあたえる幕府からの許可状は、庄司甚内に渡されました。あの接待が功を奏したとすれば、庄司甚内の実業家としての才覚は、並大抵のものではなかったといえるでしょう。