男ばかりの江戸の街にできた色の里

1590年に家康は、秀吉の命令によって本拠地を江戸に置きます。早速江戸城をつくり街を整備しますが、突貫工事の簡単なものでした。城は大阪城に比べるとはるかに見劣りし、堀も簡単なもの。田舎のみすぼらしい街に過ぎませんでした。しかし1598年に秀吉が亡くなると、家康は一気に政権獲得に乗り出します。1600年には関ヶ原の戦いで勝利し、実質的に権力を手中におさめ、1603年には征夷大将軍の地位を得て正式に幕府を開きました。

こうして首都機能が江戸に移ると、街は急速に発展します。色町の必要性も出てきます。そこで作られたのが吉原でした。

【男性人口の急増が吉原の背景】

この年から、本格的な江戸のまちづくりが始まります。しっかりした江戸城本丸をつくり、城壁を固め、堀をつくりました。現在の東京駅や銀座周辺は湿地帯で満潮時には海に沈みましたが、すべて埋め立て工事で陸地化します。諸大名の屋敷街をつくり、江戸の町割りも始めます。

家康の大号令で始まった街づくり「天下普請」は、全国の大名の力を結集して行われました。各大名は石高に応じた労働者を江戸へ派遣しなければなりませんでした。そのため、江戸の街をつくるために、全国から監督役の武士たちと、建築労働者たちがこぞって上京します。

人が集まれば、酒屋や飯屋が繁盛します。日常雑貨の店もどんどんできてきます。数十万人の男たちが一気に江戸に流入し、人口爆発が起こりました。男性の人口割合が異常に高くなり、いびつな人口構造となります。「女が足りない」状況となり、男たちは性欲を発散できません。これが吉原が必要になった大きな要因です。

【業者からの依頼で一箇所にまとめられた遊女屋】

江戸の町に男性が大量に流入したことにともない、遊女も流れ込んできました。各地に点在した遊女屋は建設労働者でにぎわい活況を呈していました。幕府としては、遊女屋が暴力沙汰を防いだり繁栄の一助となると考え容認しましたが、一方で人身売買などの犯罪の温床となることも危惧していました。

そうした背景の中で遊女屋稼業の人たちから遊廓の設置願いが出され、何年かの検討の後、幕府は設置を認めました。それが最初の吉原です。当初は日本橋葺屋町の葦の湿地帯に置かれ、柔らかい地盤を遊女業者たちが埋め立てをして、ここに江戸唯一の公認遊女街が誕生しました。当初は「葦の野原」から「葦原」と名づけられ「よしわら」と読みましたが、後に縁起をかついで「吉原」となりました。

吉原は江戸幕府の「天下普請」政策により、大量に流入した男性の欲望処理のために林立した遊女屋を、ひとつにまとめて統制するために建設され、江戸唯一の公認遊廓となりました。