働かない女は追い出された!?

江戸時代には「士農工商」という身分制度があった、と学校で教えられた人もいるでしょう。武士(士)の次に「農業」(農)を置き、工(工業、職人)や商(商人)よりも「上位」とすることで、農民の士気を高め、高い年貢(税金)に対する不満を緩和しようとしたのだ、と。しかし、実際には序列などありませんでした。現在では、小学校や中学校の教科書に「士農工商」という言葉は登場しなくなっています。身分の格差はあったものの、農家を優遇するような考え方は全くなかったのです。江戸の社会の中で、意識の上でも現実にも、農家は厳しい生活を余儀なくされる下層市民であったことは間違いありません。

貧しい社会の中で生きていくためには、助け合いが必要となります。現代のように稲を脱穀する機械もありませんので、すべての農作業が手作業です。田んぼに水を通すには用水路が必要ですが、個人の力で水路を掘ることなどできませんし、政府が作ってくれるわけでもありませんので、村中で協力して作ることになります。便利な機械があれば村でまとめてひとつ購入して、共同で使うことになります。こうした助け合い社会において大切になるのが、「掟」(おきて)です。地域特有のルールが作られ、それに背けば皆で無視をするという「村八分」が行われます。村人からの協力が得られなくなれば、その家庭の生活は成立し得なくなります。つまり、餓死することになるのです。そうした社会の中から、娼婦が輩出され続けてきました。

村中の男たちに抱かれるも、見知らぬ男に抱かれるも同じ!?

江戸時代の農民たちは、「村の掟に従う」という制約の中、「夜這い」の制度で女は村中の男たちとセックスさせられましたが、「そんなものだ」と思っていればそれなりに生きていくことができたのでしょう。女は、いつかは村中の男たちにたらい回しにされるのですから、娼婦を「遠い存在」とは感じられなかったかもしれません。吉原の遊女になる少女たちの大半が、貧農の出身だったと言われています。村中の男のペニスをくわえてもお金にはなりませんが、吉原にいけば大金を手に入れられます。「親孝行」という名のもとに、少女たちは吉原に向かったのです。

村八分にあえば死ぬしかなかった!?

「村八分」という言葉は江戸時代には存在しなかったという説もあり、実際に「アイツを村八分にしよう!」といった決議があったかどうかは定かではありませんが、掟に背いた家庭に対しては、協力を停止するという嫌がらせはしばしば行われたようです。大勢で一人をイジメるというシステムは、昔から続いている習慣です。

村八分にあえば、農作業をすべて自力で行わなければならなくなりますし、水路の利用なども自由にできなくなりますので、作物がとれず、餓死することになります。たとえば、自分の娘可愛さに「夜這い」を拒否すると、村八分になる、といったこともあったようです。年頃の娘の体は、ことごとく村中の男たちに捧げなければならないのです。そういう社会だからこそ、娘を遊女として売ってしまう、ということが起こり得たのではないでしょうか。

遊女になるのは親孝行!?

地方の農村部を巡って将来有望な娘をスカウトする仕事を女衒(ぜげん)とよびましたが、女衒が目をつけるのは10才前後の少女です。まだ初潮を迎えていない処女を、数十両の金で買い取ります。スカウトマンは生活に苦しむ農家を見つけ、その娘を品定めし、器量や体つきからモノになりそうだと判断すると、父親と交渉します。金に困っている父親は、娘に奉公にでるよう伝えるわけですが、その指示に従いセックスを仕事にすることを決意する少女を、村人たちは「孝行娘」と呼びました。吉原で売春婦になることは、「善行」だったのです。

江戸時代、農家の生活は貧しく、暮らせなくなれば娘を「売る」ということが、しばしばありました。それが許される背景には、村中で女を共有する「夜這い」があったのでしょう。