吉原は堀と塀で囲まれた脱出不能の楼閣だった!?

吉原の入り口には「大門」と呼ばれる門があり、その手前にはくの字に曲がった「五十間道」がありました。五十間道が曲がっていたのは、遠くから遊郭の中が見えないようにするためとも、遊女たちが外を見て里心を起こさないようにとも言われています。いずれにしても、中からも外からも見えない構造になっています。

遊女たちの多くは、幼いころに親に売られて女衒(ぜげん)によって吉原に連れてこられた娘たちで、いつか吉原から出ていくことを夢見ています。ときには、脱走して逃げ出すものもいるため、門を一つだけにして、周りを塀で囲う構造になっていました。城づくりと共通した考え方で作られていたのです。

【大門から外の世界を夢見た遊女たち】

川柳に、「大門をそっと覗いて娑婆(しゃば)をみる」という句があります。里心のついた遊女が、遊郭の門から五十間道の方を見て、外の世界を覗いている姿を歌っています。10才前後で連れてこられた幼い女子が、親と接する機会もなく、長年にわたりここに閉じ込められたのです。中には、ほんの少しでも外の世界に触れたいと思う子供もいたでしょう。

大門脇には警察と見張りがおり、遊女が外に出ようとすればつかまってしまいます。あくまでも、外は見るだけの世界。しかし、そこから覗けるのは、くの字に曲がった通りだけ。編み笠茶屋の軒先が見える程度でしかありませんでした。

【吉原の顔はメインストリート】

新吉原遊郭は、およそ2万7千坪。東京ドーム2つ分くらいの巨大な街です。そこには両側に、8つの「町」があり、それぞれの店が軒を連ねています。そして、「町」の真中には、「仲の町」と呼ばれる大きな通りがはしっていました。仲の町はメインストリートであり、両サイドにはさまざまなお店があって、花魁(おいらん)が楼閣から大勢の取り巻きを引き連れて道中する通りでもありました。ここは、吉原の象徴であり顔でもあったために、吉原は「中」とも呼ばれるようになりました。「仲の町」からとった、一種の隠語だったのでしょう。

仲の町には、季節の花木が植えられ華やかに演出がされていました。例えば、春になると三ノ輪などから桜の木が持ってこられ、通りの真ん中を飾ります。そして、桜が散った後には撤去されました。花見のためだけに、大きな樹木を移動させるほど大掛かりなことが行なわれ、そこには大金が投じられていてのです。当時の造園業の技術力の高さもありましたが、贅を尽くした吉原ならではの演出です。

【四方を堀と塀で囲まれている】

吉原は周りをぐるりと塀で囲まれており、その外側にはおよそ3.6メートルほどの幅の「堀」が掘られていました。堀は「お歯黒どぶ」と呼ばれています。大名の住む城とよく似た造りになっていましたが、牢獄のようにも見えなくもありません。これは、遊女たちを逃がさないためですが、遊郭は犯罪者排除に協力すると幕府に約束しているため、侵入した悪人を逃がさないためでもありました。

吉原の遊女たちは、一見華やかな生活を送っているようにも見えますが、本質的には強制労働させられている売春婦であり、外に出ることを許されない幽閉の身でもありました。吉原はそうした彼女たちを逃亡させない構造になっていました。