「夜1000両」と言われた吉原遊郭

性を売買することについての倫理感が今ほど高くはなかったにしても、江戸時代においても、娼館は決してほめられるビジネスではありませんでした。それでも幕府が、「吉原」を公認の売買春街として公認しつづけた理由のひとつに、その財力が挙げられるでしょう。わが国における公娼制度(政府認定の娼館)は、室町時代からあったとされていますが、どの時代においても、遊郭に営業権を与える見返りとして税金を徴収しています。

江戸時代には、「魚市場は朝千両、芝居小屋は昼千両、吉原遊郭は夜千両」といわれ、築地をはじめとする魚マーケットでは朝だけで1千両を稼ぎだし、歌舞伎などの芝居小屋では昼間に1千両、そして、吉原では夜だけで1千両を稼ぐとされていました。江戸全体で、一日に3千両の資金が動いたわけですが、とりわけ、吉原は安定して高額を稼ぎだせる場所であり、幕府にとっては「高額納税者」として、とてもありがたい側面を持っていたのです。その財力は、災害の復興にとっても非常に重要でした。

【もともと江戸の都市計画のために必要だった遊郭】

徳川家康が江戸に幕府を開いたころには、江戸はまだ未開拓の土地でした。そこを首都とするために、全国から建設作業員が集められ、短期間に大きな工事が集中して行なわれます。作業員の大半は独身の男性でしたので、当然、性欲にあふれています。各地から遊女たちも江戸に集まり、あちらこちらに遊女町ができあがりました。道に立って売春をする遊女も現れます。

あちらこちらにちりじりに娼館があると、幕府としては管理ができません。風紀の乱れや犯罪を防ぐ意味でも、このような施設は一か所にまとめた方が管理がしやすくなります。そうした考え方から、吉原が建設されたのです。新興都市江戸が急成長をとげるための、「都市計画」の一環としてつくられた吉原は、世界的にみてもとてもユニークな成立だったといえるでしょう。

【吉原の金が救った江戸の街】

1657年には、江戸で「明暦の大火」が起こります。本郷から出火した火が、江戸の町中、ほぼ全域を焼き尽くすほどの大火事となりました。当時の家屋はすべて木造で、しかも長屋作りですので、何軒もの家が連なっています。狭い地域に密集していたために、いったんどこかで火事が発生すると、またたくまに広がってしまう弱点を持っていました。

江戸全体が焼け野原となり、江戸城の天守閣すらも焼けてしまったほどの大災害となったわけですが、このとき、幕府は天守閣の修復を中止して、その経費を、浅草、深川などの下町復興のための資金として投入しました。そして、同時に吉原を移転させたのです。

人形町付近にあった吉原(元吉原)を浅草日本堤に移転させ敷地面積を1.5倍に、それまで昼だけの営業だったのを、夜の営業も認可します。それによって、吉原遊郭の生み出す資金は何倍にも膨らみ、幕府の税収も大きくなります。街の復興のために、吉原を利用したわけです。

吉原は江戸幕府が倒れた後も存続しつづけます。昭和33年(1958年)に売春防止法が実施されたことにより廃止されるまで、およそ340年もつづきました。このような歴史ある遊郭は、世界的にみてもとても珍しい存在です。吉原が莫大な「税収源」であったことも、存続の一要因として挙げられるでしょう。